『リンボ・ゾーン』の文脈における『小さな百合』
ユーリ・メルニコフは、『リンボ・ゾーン』で追求したのと同じ、深く、まるで考古学的なテーマをさらに展開させている。それは、癒えることなく傷痕(きずあと)へと変わり、そこから歴史を読み解くことができる「傷としての記憶」というテーマだ。しかし、前作が罪悪感とオルタナティブ・リアリティ(もう一つの現実)を巡るダークで催眠的な寓話であったのに対し、『小さな百合』はサバイバルと愛、そして記憶の継承の物語である。ドイツの「リンボ(辺獄)」から戦後の沖縄の現実への移行は、極めて自然であり、かつ圧倒的な力強さを放っている。
両作を繋ぐ共通のモチーフ
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「縫い目/傷痕」の中心的なモチーフ 『リンボ・ゾーン』におけるそれは、世界の間、「殺した」と「殺さなかった」の間の縫い目であった。一方、『小さな百合』では、生き延びるために尾を切り捨てたトカゲの刻印である、ユリコの手のひかに刻まれた三日月形の傷痕だ。どちらのイメージも、消し去ることはできないが、力へと変えることのできる「トラウマ」のメタファーとして機能している。
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「記憶の泥棒」としての国家 前作ではナチスの官僚機構とライヒ(帝国)の神話がそれであった。本作では、怯える「ひめゆり」の少女たちを靖国神社のための「英雄的な軍属」へと仕立て上げようとする東京の公式見解(オフィシャルな言説)がそれにあたる。メルニコフは、権力が常にいかにして人々から「本当の死」を奪い去り、それを美しい神話へとすり替えようとするかを一貫して描き出している。
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証人としての「布地」 『リンボ・ゾーン』のドレス、および『小さな百合』の女学生の制服――それらは加害者と被害者の双方を無言で包み込むモノである。これは、著者が描くイメージの中でも最も的確で、かつ恐ろしいものの一つだ。
『小さな百合』における新たな展開
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連鎖の断絶 『リンボ・ゾーン』が反復の悪夢であったとするなら、『小さな百合』は「連鎖の断絶」の物語である。ユリコは、フランツ・ラングができなかった(あるいは望まなかった)ことを成し遂げる。彼女は島に残り、記憶を抱え、それを子供たちへと受け継いでいくのだ。黒板にチョークで書かれた「私たちは沖縄だ」という結末は、真のカタルシスをもたらす。
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血の通った温かみ 本作は前作に比べてはるかに温かみに満ちている。ユリコとミコ、ユリコとヒナタ、そして世代の間に、確かに触れられるリアルな「愛」が芽生えている。そこにあるのはもはや罪悪感やリンボの闇だけではなく、灰の上に何か命あるものを築き上げる可能性なのだ。
文体(スタイル)
メルニコフは自身のスタイルに忠実であり続けている。長大で催眠的な描写、濃密な官能性、そして夢と現(うつつ)の境界なき融解。『小さな百合』において、それはさらに見事に機能している。沖縄の風景、匂い、ジャングルやガマ(洞窟)の音が見事なまでの迫真性で迫ってくる。トカゲとその子供たちを描いたエピローグは、現代ロシア文学において出会うことのできる最高峰のエンディングの一つだろう。
惜しまれる点
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部分的に描写がやや冗長に感じられる箇所がある(特に冒頭部分)。
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いくつかの歴史的な挿入表現(靖国神社や米軍政に関する記述)が、時にジャーナリスティックな評論調に傾きすぎている。
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ユリコとミコの関係性は、もう少し肉体的一面があり、かつ「崇高」すぎないものであってもよかったかもしれない。その方が感情的なインパクトを強めたはずだ。しかし、著者は明らかにそれを避けており、それには正当な理由があるのかもしれない。戦後の家父長制的な日本において、そのような関係性の可能性を想像することは容易ではないからだ。
総評
『小さな百合』は、『リンボ・ゾーン』のテーマを成熟させ、より深く発展させた作品だ。前作が力強くも冷徹な知的悪夢であったとするなら、本作は深みを失うことなく、温かく人間味に溢れている。メルニコフは、現代の基準で見れば極めて稀有な作品を書き上げた。それは、絶望ではなく、静かで強情な「生の肯定」によって締めくくられる戦争の物語だ。
これはもはや、単なる「優れた小説」の域にとどまらない。「重要な小説」である。記憶し続ける島。忘れなかった少女。lnそして、比喩的な新しい尾を再生させたトカゲ。
竹内ソヤ(「読売新聞」への特別寄稿)
※ロシア語版は、ウェブサイト「takoekino.pro」にて章ごとに連載中。近々、英語および日本語への翻訳も予定されている。