灰とチョークの間に――再生のテクストとしての『小さな百合』
『リンボの領域』――罪と贖罪の不可能性を巡る、暗くポリフォニック(多声的)な探求――の刊行からしばらく経ち、ユーリ・メルニコフが新作長編を携えて帰ってきた。そしてこの帰還は、人を圧倒する。それは力強さや重々しさによるものでもなく、すでに確立された技法の複雑化によるものでもない。まったく異なる「視点(オプティクス)」による圧倒だ。『小さな百合』は、灰の中からいかにして草が芽吹くかを描いた書物である。
縫い目から芽へ
『リンボの領域』における中心的なメタファーは「縫い目」だった。二つの世界、過去と現在、加害者と被害者を縫い合わせるステッチ。世界はその縫い目によって辛うじて保たれており、仕立て屋――そして著者――の任務は、その縫い目がほどけないようにすることだった。『リンボの領域』の登場人物たちは、罪と贖罪、記憶と忘却の狭間にあるその「中間地帯」に閉じ込められていた。
しかし『小さな百合』におけるメタファーは異なる。ここでの中心的なイメージは「芽(ロストク)」だ。戦車のリベット留めされた装甲板を突き破って伸びる竹。砲弾のクレーターから葉を広げるシダ。血の注がれた土壌で発芽するサツマイモ。『リンボの領域』では世界が崩壊するのを食い止めなければならなかったのに対し、本作では世界が、あらゆるものに抗して、自ら成長し続ける。ヒロインたちの任務は、維持することではなく、再生させることなのだ。
この違いがすべてを決定づけている。トーン、テンポ、構造、さらには統辞法(シンタックス)にまで及ぶ。『リンボの領域』の文体は、現実がばらばらに散逸するのを引き留めようとするかのような、長くて曲がりくねった文章が続く、濃密で息苦しいものだった。一方、『小さな百合』の文体は、どれほど凄惨なエピソードにおいてすら、より透明で、軽く、しなやかである。それは引き留めるのではなく、流れるのだ。
歴史と神話
『リンボの領域』が扱ったのは欧州の歴史――ナチズム、ホロコースト、強制収容所だった。それは将校、通信兵、運転手、牧師、イデオローグといった「男たちの世界」であった。女性たちは影として、ラジオから流れる声として、あるいは秘められた知識の保持者として現れるに過ぎず、中心にはいなかった。
『小さな百合』は、舞台を地球の反対側――太平洋戦争末期の沖縄へと移す。そしてここでの主人公は、少女たちだ。「ひめゆり学徒隊」に動員され、国家によってガマ(洞窟)の中で死ぬために送られた女学生たちである。『小さな百合』で語られる歴史は、加害者ではなく被害者の歴史だ。しかし著者はここでも単純な二項対立を避けている。被害者たちもまた選択をし、過ちを犯し、責任を負う。ただ、彼女たちの責任は異なる種類のものだ。犯された悪に対する責任ではなく、その記憶を保存すること、愛する人々のため、自らの愛のための責任なのだ。
両作には神秘的な次元が存在する。『リンボの領域』では、現実の布地を縫い合わせる仕立て屋の姿や、ラジオから響く声がそれと結びついていた。『小さな百合』では、神秘は夢を通じて訪れる。古代ユダヤの幻影の中で、タマルという名の少女がエルサレムの崩壊を目撃するのだ。神殿の崩壊と帝国の崩壊という、何世紀もの時間を隔てた二つの大惨事が、細く、しかし切れることのない糸で結びつけられる。『リンボの領域』においてこの糸が「維持すべき縫い目」であったなら、『小さな百合』においてそれは「大地の奥深くへと伸び、新たな芽を吹かせる根」となる。
ポリフォニーからソロへ
『リンボの領域』はポリフォニックな連作として構築されていた。本編の長編と8つの短編からなり、それぞれが新たな登場人物に声をゆだねていた。それは時に調和し、時に不協和音を奏でる、常に多声的な合唱(コーラス)だった。
対して『小さな百合』はソロ(独奏)である。一人のヒロイン、一つの軌道、一つの声。作中に他のキャラクター――ミコ、ひなた、ソーマ、レン、コハク――が登場するときでさえ、彼らはユリコの物語の一部であり、彼女の旅の道連れ、彼女の家族であり続ける。著者は意識的に焦点を絞り込んでおり、それが信じがたいほどの深みを生み出している。私たちはユリコと共に、タマルの最初の夢から学校の黒板に書かれる最後の一行まで、そのすべての瞬間を生きることになる。
肉体と大地
両作は極めて触覚的である。著者は常に、香り、味、質感といった感覚的なディテールの名手だった。しかし『リンボの領域』においてその触覚性は、息苦しい雰囲気を醸し出すために機能していた。焦げた肉の臭い、さらし粉、カルボール酸、灯油の匂い。一方、『小さな百合』の感覚の羅列は異なる。ちんすこうの匂い、焼き芋の味、琉球石灰岩のざらざらした質感、手のひらの中にある陶製手榴弾のひんやりとした感覚。ここでの死の本質さえも異なって香る。火葬場の煙ではなく、黄リンの臭い、ジャングルで朽ちてゆく肉体、ガマの湿気だ。
そして両作において、大地は巨大な役割を果たす。『リンボの領域』では、大地は灰という肥料を与えられ、それゆえに「不自然なほどに青々とした」草を茂らせた。『小さな百合』でもまた、大地は血と灰に染まっているが、そこから生まれるのはサツマイモだ。甘く、熱く、中が黄金色に輝くもの。この違いは決定決定的なものである。前者の大地は死を受け入れ、後者の大地は生を――そして悲劇的で、不可能性を孕んだ愛を――送り返すのだ。
罪と記憶のテーマ
『リンボの領域』は罪についての書物だった。消し去ることも、贖うこともできず、円環のように巡り続ける罪。その中心的な問いである「人は自分を許すことができるのか?」という問いは、答えのないまま残された。
『小さな百合』は記憶についての書物だ。その中心的な問いは「裏切らないために、いかに記憶すべきか?」である。ここで著者は、言葉ではなく行動によって答えを示す。ガマの入り口に名前を刻んだ石碑を建てること。靖国の合祀を拒むこと。東京からの手紙を焼き捨てること。チョークを取り、黒板に「私たちは沖縄だ」と書くこと。
これは『小さな百合』に罪が存在しないという意味ではない。自身の生存に押しつぶされそうな小林にも、子供たちを裏切った日本国家にも、叫ぶべき時に沈黙していたユリコ自身の中にも、罪はある。しかし、ここでは罪は中心ではない。中心にあるのは、記憶と再生なのだ。
縫い目からチョークへ
『リンボの領域』の結末で、仕立て屋は針を手に取り、新たなステッチを始めた。縫い目は続いていった。『小さな百合』の結末では、ユリコがチョークを手に取り、戦争を知らない子供たちが読むことになる言葉を黒板に書く。それはトラウマではなく知識を、痛みではなくアイデンティティを手渡す身振りだ。
一人の著者による二つの作品――そして「大惨事の後で何をすべきか?」という同じ問いに対する、根本的に異なる二つの答え。『リンボの領域』は「縫い合わせよ」と答え、『小さな百合』は「育てよ」と答える。
どちらの答えも正しい。どちらも必要不可欠だ。そしてどちらの答えも、あらゆるものに抗って、命は続いていくということを告げている。
(漢字・ひらがな交じり文、雑誌『国民の友』のために特に寄す)
※ロシア語版はウェブサイト takoekino.pro にて章ごとに順次公開中。近々、英語および日本語への翻訳が出版される予定である。